被爆後わずか8年で作った願い「ひろしま」

被爆後わずか8年で作った願い「ひろしま」

8月11日にNHKEテレにて放送された『ひろしま』を見ました。
戦争という言葉が国内でちらほら聞こえ出した今、見ておくべきかなと思いました。敗戦からわずか8年でこの映画を作った製作陣の伝えなければという使命感と危機感、PTSDもあるであろうに8万8500人の広島市民がエキストラとして参加したことにも感銘を受けました。

Hiroshima  1953年日本 104分

1955年に第5回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞。
教育学者長田新が編纂した文集「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」(1951年)を八木保太郎が脚色、日教組と新藤兼人監督で製作予定だったが、新藤監督の脚本はドラマ色が強いということで、よりドキュメンタリーに近い映画を求めていた日教組は決別、関川秀雄監督で製作された。新藤監督は同じ原作で別映画『原爆の子』を製作。
配給予定だった松竹がGHQに配慮して公開を見送った曰く付き。

映画の内容(ネタバレあり)

原爆投下から7年後〜原爆投下時〜7年後という構成。

原爆投下から7年後、広島市の高校で授業中に大庭みち子(町田いさ子)という生徒が鼻血を流し保健室へ運ばれた。被曝による白血病である。教師の北川(岡田英次)はクラスの3分の1は被爆していることを知り白血病について詳しく知ろうとする。クラスの生徒の遠藤幸夫(月田昌也)は学校へは来ずキャバレーなどで働いていた。

原爆が落ちた前日へと場面が変わり、
大庭みち子は母みね(山田五十鈴)姉町子(松山りえ子)と弟と共に空襲警報で家の地下に隠れていた。翌日警報が解除され、姉は学友たちと米原先生(月丘夢路)らとともに作業中突然の原爆投下、川に逃れ息絶えた。弟も死に、母と共に逃げていたが途中で母も死んでしまう。
遠藤幸夫の父秀雄(加藤嘉)は家屋の下敷きになった妻よし子(河原崎しづ江)を助けることができず、ようやく探し出した長男も死に、自分も白血病に倒れたところへ疎開先から戻って来た幸夫と洋子が駆け付けるが、父の死にショックを受けた洋子がいなくなってしまう。

再び7年後、
遠藤幸夫はキャバレーを辞め叔父の工場で働いていたが、工場が爆弾を作り始めたため嫌になって辞め、土産物屋で骸骨の置物を見たことから、防空壕で亡くなった人の頭蓋骨を土産物として売ろうとする。

感想

知っているつもりだったけれど、何も知らなかったことを気づかせてくれる映画でした。
原爆当日の事だけを描くのではなく、7年後も描く事で、後々にどれだけの影響があったのかをより強く訴えかけるものになっています。

学校の教室で被爆した生徒たちが、「自分たちが被曝によって疲れやすかったり体調不良であったりしても、同じ広島市民からも被爆したことに甘えていると責められる。広島市民でさえわかっていない本当のことを知ってもらいたい」というシーンからすでにショックでした。
原爆が落ちた後の地獄絵図、実際はこんなもんでは無かったろうと思いますが、それでも当時の混乱状態がよく分かり、逃げるところも行き場もなかったであろうに、よく助かったし、復興できたのは奇跡にも思えます。
GHQは白血病の治療はしなかったとか、
ドイツではなく日本に原爆を落としたのは日本人が有色人種だったからではという考察や、75年間は草木も生えないという噂があったとか全く知らず。
確認するために病院の庭に大根のタネを蒔いたエピソードに、自分が何も知らなかったことを痛感しました。

現在も常に戦争に対する危機感は持っていたいと思います。

現在では忖度で作れないであろう映画です。
機会があれば是非ご覧ください。

 

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